投稿雑誌 You times us is... InsideOut

プレセッション Ⅲ / 本多篤史

プレセッション Ⅲ

novel

本多篤史PROFILE

Ⅵ ベンチを作る 生まれるということ

 モノを作り上げることは、人が生まれることに似ている、と洸介は思った。母親の体から切り出されて、わけのわからない形から少しずつ形を整えて、ある目的のために働き続ける。木材として切り出された後のサクラは、座る、とか、もたれる、とか、ある目的にとても良く適った形をしている。洸介は良く乾燥したサクラを撫でながら、田中老人の腕を思い出した。
「座るやつなんかいるかなあ。」
「ま、いなかったら俺たちが座ってやればいいだろう。」
 先生の言葉に洸介は適当にうなずいて、抱えたサクラを裏庭から表に運んだ。分厚い板二枚を足にして、その上にこれまた座面になる大きな板を渡す。座面に三つの穴を開けて棒を立てたら、背もたれをくっつける。たったそれだけの作業に、大人三人と中学生が一人、四苦八苦している。田中老人の手伝いを断って四人だけで作ろうと決めたベンチ。少しずついびつな形を見せ始めるにつれて、四人全員がささやかな後悔を抱き始めていた。
「うーん、どうもうまくいきませんね。」
 ユウヘイは何度も首をひねっては、ベンチの隅々を眺めまわしている。
「ま、手作りにしては上出来なんじゃない? 誰が見るわけでもないしね。」
「とにかく、背もたれをつけてしまいましょう。これでひとまず形は完成ですし。」
 電動ドライバーの大きな音がしばらく響いて、背もたれ部分となる木材が固定されていく。和子はぼんやりと、黙って作業を続けるユウヘイの額を見つめていた。
「公園が完成したら、ひとまず家に帰ろうと思っています。」
 ユウヘイの申し出は突然だったけれど、心のどこかで予想していたのかもしれない、和子はそれに洸介ほどには驚きを感じなかった。例えば木になったリンゴの実が落ち始めるときみたいに、一たび動き出してしまえば二度ともとに戻らないものが世の中にはある。でもユウヘイがこの島にやってきたのは、そういった二度ともとに戻らない出来事ではなかったということなんだろう。それは例えば放り投げたボールがやがて地面に戻ってくるように、ゆらゆらと漂う惑星たちが実は太陽の周りを規則正しく回るように、やがてもとに戻ってしまう出来事だった。ただそれだけのことだ。ふらふらと漂って、何も考えていないようでいて、その実私の目に見えないところである決まりに従って動いていく人たち。高校生の頃の友達もいつの間にか自分の進路を決めて、恋人を決めて、周りからいなくなってしまったし、先生も多分、そういう種類の人間なんだろうとなんとなく思う。島は天球儀だ。古い星の光だけが動かずに瞬いていて、いつしか吸い込まれるように消えていく。せわしく動き回る小さな星たちは、天球儀を何度くるくる回したって、思い通りの場所に出てきてはくれない。島を掌に乗せて、そこに暮らす人々を指先でくるくる動かす様子を想像していた頃、先生の声が聞こえてきた。
「うん、あとはこれにニスを塗ったら、とりあえずの完成だな。」
 先生は汗をぬぐうと、腰を伸ばすようにうんと伸びをして、タバコを吸い始めた。
「今日最後までやるの?」
 洸介の問いに、ユウヘイが答える。
「いえ、まあ、楽しみは次にもう少しとっておきましょう。」
「私も塗りたいから、勝手に完成させちゃダメだからね。」
 ユウヘイと目を合わせず、わざと不躾に言った和子の顔を、ユウヘイも見ることができなかった。また誰かを悲しませているのではないだろうか。せめて誰かの役に立ちたいと思うのに、人を残念な気持ちにさせることしかできない自分の不甲斐なさにはもう慣れきっていたけれど、ユウヘイはまた一つの思いを胸の中でじっと揉み砕いて、なかったことにした。
「作ったー、って感じ、するな、やっぱり。」
 洸介の声は少し弾んでいるように聞こえた。
「初めてじゃないのか、こんな風に何か作ったのは。」
 先生は縁側に腰をおろして、二本目のタバコに火をつけた。
「楽しかったですか?」
「うん、楽しかったよ。まだ終わってないけどな。」
 じゃ、今日は帰るわ。また来週な。そういって洸介は門を開け、海沿いの道へ降りて行った。
「私も今日は帰るね。叔父さんが来てるから。」
「和子さん。」
 ユウヘイの呼び止める声に和子が振り向く。
「ベンチの仕上げ、しばらく待ってもらってもいいですか? 最後の仕上げをする日は、こちらからまた連絡しますから。」
「うん、それは別にかまわないけど、どうして?」
「東京に戻るのに、もう少し時間がほしくて。情けない話ですけど。」
「ほんとね。」
 和子は乾いた声で笑った。ユウヘイは少し寂しくなって足が動きかけたけれど、和子さんの速足な後ろ姿がそれをピタリ、と押しとどめてくれた。
「怒らせたみたいだな、よくわからんが。」
「そうみたいですね。」
 何かが生まれた後、空気が抜けてしぼんだ風船のようになってしまうのはどうしてだろう。生み出された命はもう世の中の一部に溶け込んでしまって、特別だと思っていた風船の中に吹き込まれた空気はもう、どこに行ったかわからなくなってしまう。生まれるというのは、特別でなくなってしまうことだ。だから僕たちは生まれてくるもの一つ一つに名前をつけて、いつまでも特別な一つであってほしいと願うのだろう。ユウヘイは生まれかけのベンチに腰を下ろして、小さく一つため息をついた。削り出したばかりの木の肌は少しささくれだっていて、ちくちくする。座っていないで、立ち上がりなさいと、静かに言われているような気がした。
「先生、この島のことを教えてくれませんか。」
「どうしたんだ、急に。」
「知りたいんです。どういう人たちが、どんな風に暮らしていて、何が起こって、何が変わっていこうとしているのか。先生じゃないとわからないことがきっとあると思うんです。ここで生まれた和子さんや洸介の目とも、たまたまやってきただけの僕の目とも違う、先生の目でしか見えないもの。」
「俺はあまり人と話さないからな。そんなに知らんぞ。」
「そんなことありませんよ。先生は話したくない人から、無理に何かを聞き出したりしないだけです。」
「そんなもんかな。」
 先生はタバコの火を消すと、腕を組んで少し考え込んだ。
「まあ、知りたいことがあったらなんでも聞いてくれ。」
「ありがとうございます。」
 診療所の電話が鳴って、先生はあわただしく飛び出していった。生まれかけのベンチと共に一人残ったユウヘイは、ゆっくりと暮れていく海岸沿いの道路を見ながらこれまでのことを考えていた。僕の突拍子も無い話を半分冗談のように思いながらも素直に受け入れてくれた人たちのこと。先生と一緒に往診して回った老人たちのこと。小さな海のそばに立つ、小さな部屋。和子さんの黒く長い髪。洸介の細い腕。先生の背中。人は何かを成し遂げるために生きるべきだと思っていたけれど、この島にはそんな人はいない。それぞれに精一杯で、あきらめなければいけないことが多くて、少しだけ気だるい。夕方の船が桟橋について、パラパラと下船してくる人たちの顔は、こんなに小さな島なのに見知った顔が少ない。どうしてこんな小さな島にも、人は暮らしたがるのだろう。何も無いと言ってもいいほどの小さな島にいつまでも暮らす理由はもちろん人それぞれあって、中には止むを得ないものもあるのだろうけれど、ユウヘイはそれでも納得のいかない思いを、消すことができなかった。生まれ落ちた場所に、このベンチはいつまでも佇んでいるのだろうけど、人は違う。『行け、行きて汝の為すべきことを為せ。』と聖書にもあるように、為すべきことを為すために、どこかへ行かなければならない。せめて誰かの、役に立つように。日が落ちるのに合わせてじわりと忍び寄ってくるような暗い気持ちをさっと掃いてしまうように立ち上がって、聞こえてきた先生の足音に合わせるようにユウヘイはまた笑顔になった。


Ⅶ 雨は魚からどう見えているか

「この雨、ベンチは大丈夫ですかね。」
「あれだけちゃんとニスも塗ったんだから、大丈夫だろ。多分。」
 洸介の言葉も意味だけはつかみ取ったけれど、正直なところ和子は雨に打たれるベンチに興味が持てなかった。しとしとと振り続ける雨。冷房の効いた誰もいない船の待合所は、半袖のシャツだと少し肌寒い。
「しかし何も空港までバスで行くことはないだろう。本当に送らなくていいのか。」
「いいんですよ。先生がいない間にもしものことがあったらみんな困るでしょう。」
「そうねー。」
 魂の抜けたような返事に、洸介もユウヘイもどうしたらいいかわからず落ち着いたような顔をしている。
「変なこと聞いてもいい?」
 先ほどから窓の外を見ていた和子が急にこちらを振り返った。
「なんですか?」
「魚、いるでしょう。雨の日はあんまり釣れないっていうけどさ、魚は雨の日はどこで何をしてるの?」
「そうですね……よく知りませんけど、岩陰にでも隠れているんじゃないですか? 魚のことなら洸介の方が詳しいと思いますけど。」
「いや、俺もよく知らないけど多分そうなんじゃないの? 雨で水温が下がって動きも鈍くなるだろうし。少なくとも水面の近くにはあんまり見当たらなくなるからな。」
「そっか。それじゃあさ、魚だって、例えば岩陰に隠れていても、水面は見えるよね。降ってくる雨はさ、魚にはどういう風に見えてるのかな? いつもはゆらゆらして静かな水面が、バシャバシャいうわけでしょ? 自分の力じゃあ絶対に出ることができない境界の向こうからたくさんのものがぶつかってきて、怖くないのかな?」
「別に魚だって水面から出るやつもいるだろ。トビウオもそうだし。」
「そうだけど、ずっとはいられないでしょ? 私たちが水に潜るみたいなもんで。」
「今しなきゃいけない話じゃないだろう。」
 先生の注意に更に火がついたように和子は話を続けた。
「別にいいじゃない。また戻ってくるって言ってるんだから。携帯だって知ってるし、一生の別れなんてもう古いよ。ケンカ別れした恋人同士でもなければ、連絡を取ろうとさえすれば手段なんかいくらでもある時代なんだからさ。なんか気になるんだもん。魚のこと。こんな日はどうしてるのかなー、って。ユウヘイは考えたことない?」
「考えたことはないですけど、想像するのは楽しいですね。魚の目はきっと僕たちの目とは全然違うんだろうけど、例えばプールに潜って上を見上げたときのあの感じに見えてるんだとしたら、雨の日は不安かもしれませんね。」
「不安ってどういうこと?」
「穏やかで、自分とは関わりの無いと思っていた世界が、突然干渉してくるわけですから。関係ないけどきれいだなって思ってたものが、そんなことないぞって、お前だっていつこっちに来るかわかんないんだぞって、脅しをかけてくるような。そんな不安とか、戸惑いみたいなものがあるかもしれませんね。ま、雨なんて一年に何度も降りますから、特別何も感じないのかもしれませんけど。」
「ロマンチストだよな、ほんとに。」
 からかうように言ったつもりが褒めたような調子になってしまって、洸介は少し恥ずかしくなった。
「なるほどね。なんだか納得できる考え方だね。さすが、って感じかな。」
「なんだか恥ずかしいですね。」
 桟橋に近づいてくる船の影が大きくなり、一つ大きな汽笛が聞こえた。
「来ましたね。それではちょっと行ってきます。」
「傘、ほんとにいらないの?」
「大丈夫ですよ、そんなに歩くわけでもないし。」
「向こうに着いたら連絡の一つぐらいよこせよ。」
 先生の言葉に、『はい。』と小さくうなずいて、ユウヘイは待合室の椅子から立ち上がった。
「お世話になりました。」
「元気でね。」
 どうしてか涙がこぼれそうで、和子は顔をあげることができなかった。誰も、いなくならないで。私の前から消えてしまわないで。大きな声で叫びたくなるのをぐっと押しとどめて、気付いてしまった思いを真っ直ぐに受け止めようとした。ユウヘイがもうこの島には戻らないだろうと、あきらめてしまっている自分の思いを、きちんと。雨に打たれる水面を見上げないまま、どうして今日はこんなに暗いんだろうと思いながら眠る魚にはなりたくなかった。不安でも、怖くても、見なければいけない境界は地上にだってたくさんあって、もちろん境界のこちら側でたゆたい続けることはできるけれど、そんな生き方はきっと脆い。
 船室から手を振るユウヘイを笑顔で見送って、和子は早足で待合室に戻った。
「大丈夫、ユウヘイは戻ってくるよ。」
 先生の言葉にどうしようも無く苛ついてしまう自分がまた惨めで、和子は下を向いたまま少しだけ涙をこぼした。

 それから静かな、雨の音だけが聞こえてくるような三週間が過ぎて、次に三人が顔を合わせたのはいつもの先生の家でも完成したばかりの公園でもなく、和子の家だった。祖母の棺の前に黙って正座する和子の真っ直ぐな視線を見て、洸介は今まで一度も感じたことの無かった感覚を持て余した。悲しみと呼べばいいんだろうか。恐怖と呼べばいいんだろうか。それとも俺は、怒った方がいいんだろうか。誰に? 和子の叔父も叔母も、それから従妹たちにも特に怒るべき理由は見つからない。きっと優しい人たちなのだろう。思い出話に笑いながら泣いたりして、和子の祖母の死を心から悲しんでいるように見えた。じゃあ何に怒ればいいのだろう? 呆けたように座っている和子にだろうか? とてもそんな気持ちにはなれなかった。何も言えないまま焼香だけを済ませて両親と外へ出ると、いつもの白衣ではなく黒いスーツにネクタイを締めた先生とすれ違った。
「先生、後でそっち行っていい?」
 迷惑だからやめなさいという両親の言葉を先生がさえぎって、快く了解してくれた。両親には何も話す気にはなれないことが、少しだけ申し訳なかった。

「悼む、という言葉を知っているか。胸が痛む、とか、傷口が痛む、じゃなくて、リッシンベンにスグルと書く『悼む』だ。死んだ人を思うときに使う言葉だ。」
「いや、聞いたことない。」
 インスタントのコーヒーをテーブルに運びながら、先生は話し始めた。
「俺も正確な意味を聞かれたらわからないんだけれど、そういう感覚がきっと『悼む』ということなんだと思うぞ。」
「よくわかんねえなあ。」
「そんなに難しい話じゃない。心だって体と同じで、ケガをするんだよ。例えば道で盛大にすっ転んだときには別に誰が悪いわけでもないのに悲しかったり悔しかったりイライラしたりするだろう? それは自分の体についてしまった傷が、自分の力ではもうどうにもならないからだし、起こってしまった出来事がもうもとには戻せないからだよ。人間はね、自分の力でどうにもならないことに直面するのが極端に嫌いなんだ。」
「ケガ、ねえ。なんか死んだ人に失礼な気がするな。」
「別に気にすることじゃない。死ぬのは誰だって怖いし、おまけに死んだことのある奴なんていないんだから、俺だって同じだよ。みんな死ぬことがどういうことかなんて、わからないし、だから怖くて、不安になるんだ。」
「どうしたらいいのかわかんねーんだよなあ。」
「何もしなくていいよ。黙って考えればいい。それもケガと同じで、ほっとけばいつか治る。」
 洸介はまだ納得のいかない様子で答えた。
「忘れるまで待つの? それなんか卑怯じゃない?」
「忘れるのと治るのは違うぞ。というか人間、そんなに簡単にものごとを忘れられるもんじゃない。特に感情なんてのは一番厄介なもんだよ。じゃあ具体的にどう違うのかって言われても、そんなに頭がよくないんでわからんがな。」
 先生はコーヒーをすすって、ふう、と大きく息を吐いた。
「やべ、雨降ってきた。そろそろ帰るわ。」
「あんまり役に立たなかったな、すまん。」
「いや、そんなことないよ。ありがとう。」
 洸介はそういって、スニーカーをつっかけて急ぎ足で出て行った。やがて雨の音がさらさらと聞こえ始めた。先生は目を閉じて、海の底の魚たちを想像した。雨に打たれる水面を見て、俺なら何を感じるだろう。この島にたどり着くまで諦め続けて、逃げ続けた自分に何かを感じるだけの心が、まだ残っているだろうか。

 あくる日は、嵐になった。夏の始まりを怒号で知らせていくような強い嵐だった。和子は嵐で足止めされた叔父や叔母、従妹たちに囲まれて、外の嵐にはまるで似つかわしくない穏やかで幸福な時間を過ごした。先生は庭の鉢植えを横倒しにして、家じゅうの雨戸をしめ切って、懐中電灯を用意して、あとは一日中本を読んで過ごした。携帯電話を持っていない洸介が血相を変えて先生と和子の家に飛び込んできたのは、そんな嵐からまた二週間が過ぎた七月の終わり、雲ひとつない朝のことだった。


Ⅷ 夏休みには何をするべきか

 ひどい有様だった。看板は吹き飛ばされて、幸い文字を書いた板は近くで見つかったけれど、それを支えていた棒はどこにも見当たらなかった。勝手気ままに生い茂った雑草のまん中に佇んでいたものの事には三人ともなるべく触れないようにして、取りあえず三人で雑草の処理を黙々と続けた。
「休憩するか。ちょっと一度うちに戻ろう。」
 力なくうなだれた和子と洸介も先生の車に乗り込み、いったん診療所に戻った頃にはもう正午を過ぎていた。
「朝の八時から四時間、まあよく働いたよな。」
「ほんともうクタクタ。クーラー気持ちいー。」
 和子は足を投げ出してクーラーの真下を、洸介は床に転がって扇風機の真ん前を無遠慮に陣取っている。
「ちょっとは年長者に気を遣えよな。」
 氷と麦茶を入れたグラスをキッチンから運んできた先生に、和子は慌てて居住まいを正したけれど、洸介はちらりと先生を見ただけだった。
「それにしてもさ、問題はあのベンチだよな。どーすんだよ、あれ。」
 折れて飛んできた木が直撃し、ベンチは見るも無残な姿になっていた。座面は真っ二つに折れて、背もたれは絶対に人をもたれさせるまいと好き勝手な方向を向き、ニスがはがれてかさかさとした肌がその哀愁を一層濃いものにしていた。
「まあ木材を買ってくればなんとか治せるとは思うが、洸介はどうしたいんだ?」
 洸介はうーん、としばらくうなった後、起き上がって胡坐をかいたまま言った。
「そのうちさ、治すよ。でも今は無理だな。夏休みに入っちゃったし。」
「何言ってんのよ、夏休みだからいいんじゃないの? ま、私はいつでも夏休みみたいなもんだからいいんだけど。」
 そういってカラカラと笑う和子を余所目に、洸介は続けた。
「夏休みにさ、何をすべきか、考えたんだよ。俺さ、勉強してみようと思って。」
 和子も先生も、驚いてへえ、とか、ほう、とか不思議な声を出してしまった。
「かっこわりーだろ。いつまでも、ぼーっとしてんのも。それにさ、大学行きたいんだ。親も大学に行けってうるさいし。」
「けっこうつらいよー、今から取り返すのは。あ、でもそれなら先生に教えてもらえばいいじゃない。マンツーマンでみっちりと。」
「実は俺もそうしようと思ってたんだよね。」
「そうしようってなんだお前。お願いできませんかというのが筋だろう。」
 先生の声はそんな言葉とは裏腹に楽しんでいるように聞こえた。
「ごめんごめん。そういうわけでさ、お願いしたいんだけどどう?」
 まあ、かまわんが。そんな先生の言葉に和子も便乗して言った。
「それならついでに私にも教えてよ。私さ、市内の大学に行こうと思ってるんだ。」
 今度は洸介と先生が素っ頓狂な声を上げた。
「まあそれには大賛成だし大いに協力するけれど、なんかあったか?」
「うん、まあおばあちゃんも亡くなっちゃったし、叔父さんと叔母さんもほんとに優しくしてくれるから、それならしばらくの間甘えようかなって思ってね。一人で生きていくならやっぱり仕事は必要でしょ。人生の夏休みももうすぐ終了かなー。」
「夏休みってよりは、冬休みって感じだったけどな、テンション的には。」
 洸介がそう言って笑うと、先生と和子もつられて笑い出した。

 八月はセミの声に紛れるようにけたたましくはじまった。真面目に勉強したことの無い洸介は当然ながら勉強に対する集中力など全くなく先生に何度も怒鳴られながら、それでもなんとか中学二年生までの内容は一通り理解できるようになった。深刻なのは和子の方で、これまで真面目に勉強してきた分ある程度の基礎はついてはいたものの、一年半のブランクを取り返すための時間は短く、またプレッシャーがかかればかかるほど実力を発揮できないという問題点も浮上した。わからない問題にぶつかるたびに冷や汗を流してフリーズしてしまう和子には先生もほとほと手を焼いたが、『五秒考えてわからなければ飛ばす』というとっておきの対策が少しずつ身に付き、なんとか学力も二年前と同程度まで回復することができた。

「そういえばさ、ユウヘイとは連絡とってんの?」
「うん、ときどきね。といってもいつも私から状況を聞いて、返事は一言二言だけ。無礼な奴よねー、全く。」
 八月も半ばに差し掛かると、島はいつもより少しだけ活気を帯びる。島の外に出て行った人たちが家族を連れて帰ってくるからだ。見慣れない小さな子たちが海岸沿いの道を走り回るのを先生の家の窓からぼんやりと眺めていた和子は、急に先生に聞いてみた。
「勉強するようになって改めてわかったけどさ、先生ってやっぱり頭いいよね。」
「ま、一応医者だからな。それなりにはな。」
「どうしてこの島に来たの?」
「まさかユウヘイみたいなこと言わないだろうな?」
 洸介がからかうのを和子がたしなめる。
「一度も聞いたことなかったけどさ。普通だったらなんか噂が流れてきてもいいようなものだけど、それも全然無かったし。」
 先生は少しだけ考え込んで、ぽとりとこぼすように言った。
「お前たちに聞かせるような話じゃないよ」
 洸介は納得のいかない様子だったけれど、和子はそれだけで満足だった。それぞれ、本当にやるべきことや考えることから逃げていた私たち。先生もその中の一人なんだろうということが分かっただけで十分だった。

「お盆になると島には人が増えるんです。こっちではお墓で花火をするんだよ。知ってた?」
 八月十三日の夜。写真つきで和子から送られてきたメールを見て、当たり障りの無い返事を送ったユウヘイは、すぐに目の前の仕事に取り掛かった。講義が夏休みに入るこの時期は昼間でも学生の数は少なくなるが、十時を過ぎるともともと人影もまばらだった研究室から一人、二人と消えていって、室内はファンの回る音だけが響くようになる。すぐに島に戻るためと思って取り掛かり始めた仕事だったけれど、仕事にその達成とは全く違う目的を与えてしまった時点で、何か大きな間違いをしたのではないのだろうかと、ユウヘイはまたそんなことを考えはじめて手を止めた。買い置きのカップ麺にお湯を注いで、研究室を出たすぐそばにあるテラスに夕食のために外へ出た。十三階のテラスからは、光る街が良く見えた。島とは比べものにならないほど多くの人たちが暮らす街。なんでもある街。心さえ開いてしまえば、どんな人でも受け入れてくれる大きな街。雨の行方をぼんやりと考えてみた。この街では(といっても、ほとんどの街ではそうだろうけれど)降った雨は張り巡らされた用水路で集められて、誰にも見えない暗渠に流れてやがてどこか、多分海へ、出る。暗渠に魚は暮らすだろうか。光のない河に暮らす魚たちは、何を以て地上の雨を知るだろうか。暗い海の底で境界を見上げる魚たちに比べて、暗渠に暮らす魚たちがもしいるとすれば、彼らは間違いなく、不幸だ。届かない場所があること、生きていけない場所があることを知らないから。
 南の空にさそり座がかすかに見える。獲物を狙うようにハサミを伸ばして、大きく湾曲した体の末端、尾の先には鋭い針がついた尻尾がある。たった一度、オリオンを刺したために永遠に追われ続けるサソリは、やがて死ぬか捕えられる逃亡者たちよりも、不幸だ。不幸では無い僕が不幸について考える資格があるのだろうか。カップ麺を横断歩道を渡るみたいにさっさと胃に流し込んで、夜の風に吹かれてもじんわりと滲み出す汗を感じながら、ゆっくりと、ゆっくりと、短かった島での暮らしを思い出してみた。洸介の自嘲するような笑い方。診療所の匂い。和子さんの書いた公園の看板。島は『水道』と呼ばれる狭い河のような海峡を挟んで、本土に面していた。その本土を臨むように、東向きの斜面に沿って墓地があった。墓地は他にも数か所あったが、ユウヘイはその墓地が一番好きだった。島をぐるりと一周する道沿いにあるその墓地は、整然と整列した計画墓地と違って、次々に勝手気ままに増やしていったような不思議な形をしていた。他家の敷地を通らなければいけないところがあったり、塀で囲われた立派な墓地があると思えば、その隣には文字も読めなくなってしまった無縁仏があった。明け方、部屋から歩いて十分ほどのその墓地へ、何度か散歩をしたことがあった。夜の終わりは、海の底から上がってくる。低い山々の連なる本土側から始まる朝は、太陽そのものが目に見え始める前にまず海の色が、空を映して青く変わり始める。それからやがて山の端が白み始めて、やがて太陽が姿を見せる。海へ向かった墓石の、この地方特有の金箔が張られた文字が輝き始めて、墓地は陽が高くなるまでのいっときの間、きらきらと輝く。やがて朝一の船が、本土側から島の桟橋へ向かって少しずつ大きくなるのが見えてきて、島の一日は動き出す。境界がある。広い土地を目の前にしながら、島の墓地で永遠に眠る人々が見続けた境界。泳いでも渡れそうなほどのこの海峡は、それでもやはり届かない、生きていけない場所を示す島の人々にとっての道祖神みたいなものだったのかもしれない。研究室へ戻ろうと立ち上がったとき、携帯電話が鳴った。和子さんからの返事だった。「そういえばこの前台風が来て、私たちの公園はひどい有様になってしまいました。私も洸介も勉強で手一杯でなかなか修理ができません。一応、雑草だけは片づけたんだけどね。暇な人、片づけてくれませんかー?」
 ユウヘイは少し、笑った。和子さんも洸介も、軌道を外れた人工衛星のように、動き始めた。二度と戻らない旅になるかもしれないし、あるいは彗星のように、長い時間を経てまた同じ場所に戻るのかもしれない。僕はどうだろう。何を目指して、何の引力によって、動かされているのだろう。動き続けないといけない。動き続けなければ、目に見えない強い引力に引き寄せられて、果てさえも見えない巨大な星に、飲み込まれてしまいそうだ。
 研究室に戻ると、島本教授が一人、奥の机に座って何か作業を始めていた。白髪の目立つ、もう老人とも言っていい風体の教授は、ちょこん、と置物のように座って分厚い論文の束に目を通している。
「片岡君」
 仕事に取り掛かろうとしたところで、教授の声にユウヘイは返事をした。
「研究室に二人だけなんて機会も少ないから言っておくけれど、この前のこと、僕は全く気にしてないから。君はやっぱり、研究を続けるべきだ。」
 すみません。ありがとうございます。それだけの言葉が精一杯だった。

 午前四時を回った頃、ユウヘイは研究室を出た。構内に止めておいた自転車の鍵を開けて走り出すと、東の空には、登りはじめたオリオンが見えた。オリオンもまた、届くことの無い境界の向こうをじっと見つめ続けている。ユウヘイは腰を浮かせて、力いっぱいにペダルを漕いで走り出した。

〈続く〉

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PROFILE本多篤史

1984年生まれ。27歳。
長崎県長崎市出身。
2006年よりInsideOutへ詩や小説を投稿する傍ら、スタッフとしても編集・イベント企画を担当。主幹として企画・進行をつとめる創作のためのワークショップInsideExplorerには、2009年の開始以来、のべ300名以上の方にご参加頂いています。

本多篤史さんの作品