投稿雑誌 You times us is... InsideOut

ティーカップの深い底 / 中村叶子

ティーカップの深い底

novel

中村叶子PROFILE

 寂しくなると厭らしくなるのは依怙地だと思う。小夜子さんが、せっせと化粧したり、着る服を選んだりしている後姿を台所で紅茶を飲みながら僕は思う。一心不乱に身だしなみに気を遣う姿は、何となく依怙地だ。いつもはどうせ店で着替えるからとよれよれの服で出掛けていく小夜子さんだが、今日はお洒落をして行くらしい。別に同伴とか気の利いた話ではない。単に出勤前に一緒に食事をしてくれる、色んな意味で好意的な男性を見つけたのだ。小夜子さんとデートする人なんて、息子の僕でも全く記憶に無い。
「ああ、スカートが入らない」
 花柄の少し年代遅れなデザインのスカートは、真ん丸い体系をした小夜子さんの身体と比較すると本当に少ない生地である。何とか無理に腹の肉を押し込もうと、「はっ!」とか「えいや!」とか気合を入れながら、悪戦苦闘している。化粧は既に済んでいたが、腫れぼったい目の小夜子さんが青いアイシャドウをすると、何だか殴られた後の人のようである。青みがかったピンクの口紅と青いアイシャドウの組み合わせは、七十年代のアイドルが、その時代を一向に卒業出来てないみたいな悲惨なものがある。
「ああ、入った。良かったわ。時間に間に合う」
 いそいそと台所を何となしに片付け、
「鍋にカレーあるから、温めて食べてね」
 とだけ言うと、そそくさと出て行った。どうやら履いていく靴は事前にちゃんと決めていたようで、玄関から出て行くのが早かった。
 僕は自分が着ている、白いフリルとリボンがふんだんについたワンピースを見ながら溜息をついた。小夜子さんは僕にはシャーリー・テンプルの服しか買ってくれない。そのくせ、白やピンクばかりでカレーなんかで汚したら目くじら立てて怒る。ならば、せめて黒系の服のときにカレーにしてくれないかな、と僕はぼんやりと思う。小学校までは学校に行く用の服はシャーリー・テンプルとは別に一応買ってくれていたが、中学校に入ってからは制服や体操服以外に買ってもらっていない。別に、僕は学校に行っていないから良いのだけれども、背が低いことが幸いしてまだ子供服のシャーリー・テンプルを着ている。
 時計を見たら八時だった。僕は、鍋のカレーを温め、炊飯器の冷えたご飯を皿によそってレンジにかけながら、食事を終えたら百合子の着替えをしなくてはと思った。やっぱり、一日に一回は着替えくらいさせてあげないと可哀相だと思う。
 小夜子さんの作るカレーは相変わらず不味い。給食やレトルトの方が余程美味しい。小夜子さんみたいにスナックでしか働けないくせに、見た目の良くない人でも料理くらいきちんと出来たら、誰かしら僕の義父がいたんじゃないかと時々思うことがある。でも、こんな水っぽいカレーしか作れないお陰で、僕は僕で気ままにやっていけているような気もする。白いワンピースに溢さないように気を遣いながら食べ終えると、皿を水につけ、僕は自分の部屋に行った。家具も何もかもカントリー調で、全部小夜子さんの好みである。だから、僕はこの部屋に親族を含め、小夜子さん以外に人を入れたことがない。ベッドの隅に百合子はいた。随分昔に小夜子さんが買ってきたリカちゃん人形である。頼みもしないのに定期的に新しい服を買ってくる。それも、僕が着ているのと同じようなフリルやリボンが沢山ついたものが多い。百合子と名付けたのも小夜子さんだ。可憐な名前が良いと言って、勝手に決めた。小夜子という名前も随分可憐なもののように思うが、決して可憐な見た目じゃない自分への当てつけなんじゃないかと今の僕は思っている。
 今着せている白いワンピースから、ピンクのワンピースに着せ替えることにした。小夜子さんは靴や帽子などの細々したものも買ってくるが、それらを嵌めると何処かに無くしやすいので僕は服しか着せない。但し、時々は栗色の髪を梳いてあげている。百合子を脱がすと、その身体には白いビニールテープがぐるぐる巻きになっている。僕が、何だか艶かしい百合子の裸を直視するのが嫌になってからの応急処置だ。まるでさらしを巻いているかのように胸元から足の付け根までがぐるぐる巻きである。僕は、特につるんとした素材で出来ている胸元が苦手だった。でも、百合子もきっと僕の気持ちを分かってくれている筈だ。僕も、更衣室で他の男子に着替えている姿を見られるのがとにかく嫌で、中学校へは行かなくなってしまったのだから。僕は特に運動もしていなく、小夜子さんみたいに太っている訳でもなく、ひょろっとしている。それでいて、二次性徴の片鱗は全く無く、どこもかしこも女の子みたいでいて、平べったい。小夜子さんはそれが気に入っているらしいが。
 百合子を着せ替えて、三日ぶりに髪を梳かしてみた。何もしている訳ではないがちゃんとさらさらとしている。僕は再び時計を見た。まだ、八時半だった。三時間くらい横になって仮眠をすることにした。十二時には、百合子と一緒にいつも外出する。


 十一時半頃、僕は目が覚めた。ワンピースのまま寝たから所々皺くちゃだが、気にしない。枕の横を見やると百合子が目を開けたまま仰臥している。顔を洗いに洗面所に行くと、そこには気持ちの悪い僕がいた。フリルのついたワンピースを着て、どう見ても女の子にしか見えない。僕はぬるま湯で顔を洗うと、部屋に戻った。今日は以前、小夜子さんに聞いた夜中までやっているという洋菓子店に行ってみようと思っている。勿論、百合子を連れて。普段、この時間に出歩くとき、百合子以外は何も持たないのだが、今日はちゃんと財布を持った。財布を入れるのに適当なサイズのバッグも、小夜子さんが買ってきたハート型のポシェットしかない。好きなデザインではないので、全く使ってない中学校のサブバッグに入れることにした。こんな格好で、明らかに少女にしか見えない僕をお店の人が入れてくれるのか些か不安はあったが、そもそもこの時間にいつも出歩いていて補導すらされたことが無いので、大丈夫だろうと思った。
 右肩にサブバッグを提げ、左手で百合子を持つと僕は家を出た。ちょうど、十二時頃だった。小夜子さんが帰ってくる四時頃までには戻らないといけない。この時間に出て行くときはエレベーターを使わず、非常階段で降りていく。古いマンションの隅に螺旋で設置されている非常階段は誰もいないから、この時間に出て行くときにはちょうど良い。ほんの少し風が吹いていて、螺旋階段を降りていく僕のワンピースの裾がふわっと舞う。白いエナメル素材のパンプスも小夜子さんが買ってきたものだ。十一階から降りていくと、マンションの裏口に出る。オートロックなんか無い旧式のこのマンションはひっそりと出て行くには、本当に適していると思う。春の夜は涼しくて、暑がりの僕にちょうど良い気候だ。でも、百合子には寒いかもしれない。僕は左手にぎゅっと力を入れた。
 この辺りは、少し先の街道を越えて駅に向かうと郊外の繁華街である。小夜子さんもその中の一軒で働いている。しかし、街道からうちのマンションがある方は閑静な住宅街で、この住宅街の更に奥の方に洋菓子店はあるらしい。僕は何となくでしか聞いていない小夜子さんからの情報を頼りに歩き出した。路地には誰もいない。この時間に出歩いていると帰宅の遅いサラリーマンや、不良学生や、何の仕事をしているのかわからない(大方、小夜子さんみたいなものだろう)若い女の人に出くわすことはよくあるのだけれども、フリルやリボンのついた服を着た、リカちゃん人形を持ったショートカットの女の子には(正確には男なのだけれども)誰も気に留めない。不気味なのかもしれないし、本当に興味が無いだけかもしれない。だから、深夜のこの界隈は僕にとっては、家の中なんかより余程自由な空間だった。いつもは適当に三時間くらい散歩して、百合子と帰る。今日は、目的地があるので、少し緊張しているのは事実だ。男に見えるか女に見えるかはさて置き、やっぱり僕は自分の年齢である十三歳以上には見えないのだから。こんな夜中に出歩いていると通報されるかもしれないし、もしそうなったら結局は小夜子さんが迎えに来ることになる訳で、二度と深夜の徘徊が出来なくなるかもしれない。でも、その洋菓子店には行ってみたかった。小夜子さん情報によると、ジンジャーと紅茶が入ったパウンドケーキが美味しいらしい。小夜子さんはお客さんにお土産で貰ったそうなのだが、家に持ち帰ることはせずにその場で平らげたらしい。要は、僕の洋菓子店への思い入れは、食べ物の恨みは恐ろしいというだけのことかもしれない。僕は、とにかく紅茶が好きなのだ。
 三十分くらい歩いて、駅からは大分遠くなり、むしろ隣駅の方が近いのではと思われる一角にその洋菓子店はあった。商店街の一角なんかではなくて、本当に住宅街の中にひっそりとあるから電気が点いていなかったら見落としていたかもしれない。何となくパリの街中にありそうな雰囲気の出窓のついた二階建ての店だった。
 僕は躊躇わずに入っていった。中の雰囲気も西洋の古い時代のもののようで、同じ外国様式でも僕の部屋の小夜子さん仕様のカントリー調とは訳が違う。陳列棚や、壁に掛けられた時計も決して新しいものではなかったが、その分重厚感があって歴史が感じられるような気がする。もしかしたら、以前は本当にパリで使われていたのかもしれない。そんな気さえした。
「いらっしゃいませ」
 店員の三十代くらいの女の人は、髪を一本に束ね、ジーンズにポロシャツの上にエプロンをしていた。そして、穏やかな笑顔で僕を迎えてくれた。これなら追い返されることも補導に発展することもなさそうだ。
 僕は陳列棚に見入った。聞いていたパウンドケーキ以外は、マカロン、クイニーアマン、グラニテ、ミルフィーユ、タルトタタン、ブリオッシュショコラ、クグロフ、フレジエと名前を聞いたことの無いものの方が多かった。どれも、見た目が綺麗で、小夜子さんが買ってくるスーパーのお菓子とは訳が違った。たまに小夜子さんが買ってくる、別の店のショートケーキなんかとも訳が違った。素朴だったり、芸術的だったり、見た目はそれぞれ違うが、お菓子にも品格があることを僕は今日知った。
「パウンドケーキを下さい」
「かしこまりました。お二階で召し上がって頂けますが、どうなさいますか?」
 二階で食べられることなんて知らなかったが、迷わず
「じゃあ、二階で食べます」
 と答えた。二階の雰囲気も気になる。
「では、ご案内致します」
 と、受付の女の人はカウンターの隅から出てくると、奥にある階段を上がっていった。僕もついて行った。階段は傾斜が少しきつく、けれども直線なので上りにくいことはなかった。二階に上がると、丸いテーブル席が五つあった。テーブルのサイズはどれも違っていて、大きいものは四人席、小さいものは二人席という作りになっていた。古い喫茶店のような居心地の良さそうな空間だった。僕は階段から直ぐの二人席に案内された。出窓の横の二人席にも客がいた。
「お飲み物は何になさいますか?」
 店員の女の人は終始にこやかで、笑顔に曇りが無い。僕は紅茶のケーキに紅茶はくどいかな、と思ったが、結局紅茶を注文した。お姉さんは一礼して、階下に降りていった。
 窓際の客は二人組みで、一人は派手な女の人、もう一人はショートカットのボーイッシュな女の人だった。ケーキと紅茶と待っている間、失礼だとは思ったが、二人の客を観察していた。ショートカットの人は聞き役で、ほとんど派手な女の人が喋っていた。大き過ぎる瞳、傷みの酷い金髪、大きく胸元の開いた黒色の裾が短いワンピースで脚を組んでいる。開いた胸元からは、大き過ぎる胸が露出していた。細いピンヒール。そして、しゃがれた野太い声。他愛もないことを喋っていたが、僕は何となしに派手な方の人はニューハーフとかそういう人なのではないかと思えてきた。テレビに出てくるそういう人種の人によく似ている。そのうち、僕があまりに観察していることが知れてきたようなので、気まずくなって下を向いた。そうしたら、ちょうどタイミングよくケーキと紅茶が運ばれて来た。
 まず、紅茶に口をつけた。家で飲むティーパックのものとは当然訳が違った。香りが全然違うし、味も深みと苦味のバランスがちょうど良い。紅茶にもやっぱり品格はあるものなのだ。パウンドケーキをフォークで小さく切り、口に入れてみた。紅茶のほのかな香りとジンジャーの苦味、そして甘味が絶妙に調和している。何より、口当たりが滑らかで、本当に柔らかい。美味しい。小夜子さんは美味しいものは作れないくせに、美味しいものを美味しいと感じる能力には長けていると思った。
 テーブルの隅に座らせておいた百合子に目をやった。ちょこんと座った百合子はケーキも紅茶も口にしないが、満足気に見えた。
「その人形、君の?」
 不意に派手な女の人が声を掛けてきた。僕は突然だったので驚いてそちらを見たが、案外柔和な顔でこちらを見ていた。
「君、男の子でしょ? 私もなのよ」
 そう言って、くっくと笑った。識別出来る人にはやっぱり分かるんだなぁと妙な感心をした僕は、かえって警戒心も無くなり
「そうです」
 とそのまま答えた。
「そういう服装が好きなの?」
「いえ、母が勝手に買って来るんです」
「その人形も?」
「そうです」
 男だと自称した女の人は、煙草に火を点けた。小夜子さんが吸うメンソールの煙草しか僕は銘柄を知らなかったが、その人が吸う煙草はどことなくバニラの香りがした。
「でも、持ち歩いてるからその人形好きなんでしょ?」
「嫌いじゃないです。と言うか、他に一緒に出掛けてくれる人がいませんし」
 僕は、また紅茶に口をつけた。少し温くなった紅茶は、渋みが強くなってきて、どことなくこのお姉さんに似てる気がする。
「そう。女の子の格好してるからって、男の子が好きな訳でもないんでしょ?」
 急な質問で、僕は何と答えて良いのか分からなくなってしまった。不意に更衣室での光景が思い出された。あれは、僕が男の人が気になるが故の拒否反応なのだろうか?だからと言って、別に女の子が嫌いな訳でもない。
「別に好きでも嫌いでもないです。男の人も女の人も好きでもないし、嫌いでもないです」
「あらそう。分からないうちは誰ともやらない方が良いわよ。別に男とだって、女とだって、人形とだって良いのよ。でも、分からないうちは駄目。そうしないと私みたいに失敗するわよ」
 そう言って、またくっくと笑った。僕は何となく、百合子を馬鹿にされたような気がして不愉快だった。百合子のぐるぐる巻きのビニールテープが浮かんだ。ひょっとしたら僕は女の人にも拒否反応があるのかもしれない。いや、男にも女にも拒否反応がある。だからと言って、百合子を恋人のように思ったことなどない。
「私はね、女として女が好きなの。それなのに、生まれたときは男だったのよ」
 そして、男だったお姉さんは前に座っている女の人を見た。ショートカットの女の人はジーンズにセーターという、ラフと言うよりは地味な身なりで何も言わず、終始穏やかに座っている。きっと二人は恋人同士なのだろう。
「君、名前は何て言うの?」
「潤之介です」
「どういう字を書くの?」
「潤うに平仮名のえみたいなやつに介助の介です」
「まあ、谷崎と吉行の間の子みたいな子ね」
 そうして、またくっくと笑った。僕は谷崎も吉行もよく知らなかった。何となく、これから知らなきゃいけないんだろうなという感じがした。
「じゃあ、私達帰るわね。ここのミルフィーユも美味しいわよ。たまに来るから、また会ったらよろしく」
 二人は立ち上がって帰って行った。壁時計を見たら、二時を少し過ぎたところだった。僕も残りのケーキを食べ終えて、紅茶を飲み干したら、小夜子さんが帰る前に帰らないといけない。
 テーブルに座っている百合子を見た。相も変わらずいつもと同じ笑顔だ。さっきのお姉さんとの話を反芻しながら、急に百合子を床に投げ付けたい気持ちになった。でも、そうはしなかった。百合子のピンクのワンピースが床で汚れてしまったら可哀相だ。きっと髪もばさばさになるだろう。
 僕は残りのパウンドケーキを食べ終えると、一気に紅茶を飲み干し階下に降りた。伝票は無かったので、下で言えば大丈夫だろうと分かっていた。ふと、小夜子さんにお土産でも買っていこうかと思ったが、当然の如くやめた。お土産なんかくれない小夜子さんへの当てつけみたいだし、第一、この夜中の徘徊はもう暫く続けたかった。もしかしたら、またあのお姉さん達に会うかもしれない。
 会計を済ませて、外に出た。来たときと同じ涼しい風が吹いている。百合子は財布と一緒にサブバックの中に仕舞った。
 僕はお姉さんとの会話を何度も反芻しながら、家路に着いた。洋菓子店を出て、小夜子さんとの家に戻るこの道は、いまだかつて無い程に靄がかった迷路のように思えた。

〈続く〉

印刷して読むことができます。

PROFILE中村叶子

東洋大学文学部日本文学文化学科(夜間部)除籍。様々な職を在学中から経験し、現在はただのフリーター。 好きな作家は、尾崎翠、坂口安吾、林芙美子、宇野千代、谷崎潤一郎、寺山修司など。創作に関しては未熟者です。

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